山村暮鳥の生活・《5》
大正9年の1月に、吉野義也によって福島の平町外北好間上野菊茸山に新築された家に移った。自分の生まれた故郷に戻るということで新しい生活に希望を持っていた。しかし、この希望は見事にくじかれた。彼が結核患者であり、クリスチャンであるという理由で、部落民の大迫害を受けたのである。この地に十数日居ただけでまた磯浜に戻ってしまった。
“やっと移転した。惨たる生活はもうはじまった。一切お話にならない。”
(大正8年1月18日 花岡大関宛書簡)
“山麓部落の大迫害とその他の困難百出、自分らは命からがらまた左記(磯浜)に舞戻った。半生にもあたる苦しみを十数日で経験した。自分も家族もたっしゃです。”
(大正9年2月 花岡大関宛書簡)
暮鳥はこれには大変なショックを受けた。このように暮鳥の苦しみはどこにでもついて回った。
大正9年4月、暮鳥が自信を持っていた童話「鉄の靴」の作者保護のための“鉄の靴会”が、彼の友人犀星、花岡謙二、前田夕暮、大関五郎等を発起人として発足した。6月に教会からの俸給が止まり、“鉄の靴会”の送金と稿料のみの生活が始まった。この“鉄の靴会”は暮鳥の救い主であった。
断章1
どんなにくるしっくても生きねばならない
よしこの大地を舐めずってなりと
生きるものは生きる
否くるしめばくるしむほど
より強くかつりっぱに生きる
くるしむものは生きる
くるしむものばかりが生きる
(『梢の巣』より)
大正11年には不景気のあおりもあって、暮鳥の生活は急に苦しくなった。
“毎日むしゃくしゃしてゐます。すべてが思ふやうにならないのいで・・・けれどその中でたくさんの唄をかきました。魚のやうに水だけでも生きてゐられる人間だとかうしてゐたいんですけれど・・・”
(大正11年6月23日 花岡謙二宛書簡)
大正8年頃から童謡、童話を多く書き、詩作の少なかった暮鳥は、大正12年の夏頃から急に多くの詩がかけるようになった。ふさがれていた泉が青空の下でこんこんと清水が湧き出させるように。これは暮鳥の非常な喜びであった。苦しい生活の何よりの慰めであった。
大正12年の7月頃は、華厳経とか正法眼蔵といった仏教の本を読んで深い感銘を受けた。日々の生活は静穏で、悔いのない生活を送った暮鳥にとって真の休息が徐々に訪れていたのである。
大正13年12月8日永眠す。短くも真実の一生であった。
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