山村暮鳥の生活・《1》
明治17年1月、群馬の高崎に近い堤ケ岡という村に生まれて以来、暮鳥の不運な生活が始まるのである。豊かな農家に生まれたが家庭内は陰鬱であった。後、この家を去った暮鳥一家は小作百姓となってしまった。16歳に満たない時から、陸軍御用商人、、活版職工、紙屋、ブリキ屋、貿易商、鉄道保線課等の職業を転々と歩いた。女を知り、物を盗み、一椀の食物を乞うことすらあったのである。倒産して貧しくなった家のために16歳の時、年齢を三つごまかして代用教員になった。この頃から向学心に燃えていた暮鳥は懸命に勉強を始めた。暮鳥に多大な影響をおよぼしたと思われる宗教(キリスト教)はこの時に知った。キリスト教に、特に愛の福音は暮鳥を耽溺させてしまった。
明治36年、20歳の時、東京築地の聖三一神学校に入学した。それまでに自殺を3回図った。余りにも苦しい生活のために、現実世界の醜さのために次第に学校の退屈な授業より文学方面に面白味を感じ、文学に傾いていった。文学としてはじめ短歌より出発し、明治40年24歳頃から暮鳥の本質である詩に移った。
明治41年、聖三一神学校を卒業する際、暮鳥は文学か宗教かと迷った。しかし、暮鳥の生涯を通じて、文学と宗教は常に一体となって彼の詩の底流をなしている。
明治42年、25歳の時、転任で湯沢に行き、真冬の御嶽山上で四十日四十夜瞑想にふけり、ついに幻覚に神の声をきき、天上に十字架をみたと半面自伝でいっている。翌年人見東明の自由詩社に加わり活発な詩的活動を開始した。
大正2年5月、詩集『三人の処女』を自費出版した。この頃から大正6年頃までの間が詩作の最盛期であった。
大正2年6月に土田冨士と結婚した。毎日詩作に、雑誌発行に忙しい日々を送った。
大正3年6月には長女の玲子が生まれ、暮鳥も一家を持つようになった。自分の文学活動とその上一家を持った忙しさに追われるようになった。生活は決して楽ではなかったがどうにかやりくりできる状態であった。この前後が暮鳥の生活が一番安定していた時期であった。
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