生活詩人 山村暮鳥

豊多摩高等学校文芸部研究レポート(1962.10.10)

山村暮鳥の生活・《2》

 大正4年は、詩壇の突然変異と言われた詩集『聖三凌玻璃』を出版した年で、非常に野心に満たされていた年であった。室生犀星萩原朔太郎と共に人魚詩社を作り共に活動した。大正4年3月24日付茂木正蔵宛の書簡には“あはただしき一夜泊りのたび人はその後二三日前まで教会と文壇とのために暇をまはし申候。殊に後者のため、大努力、大ふんとうせんと武装いたし申し候。(後略)”とある。これは『聖三凌玻璃』のことを言っているのであろう。暮鳥が『聖三凌玻璃』をいかに信じていたかは、次の小山義一宛の書簡を読むと暮鳥の心境が察せられる。“(前略)。小生は今の文壇乃至思想界のための《ばくれつだん》を製造している。(中略)此の詩集、今世紀にはあまりに早き出発である。千年万年後の珍書である。これ小生のものならず。即ち人間生命の噴水である。その聖くして力強きをみよ!(後略)”。野心に満たされた年であったが一つ悲しい出来事があった。11月に生まれた長男聖一郎が、生後三日たらずで日の光をあびず死んでいってしまったということである。12月『聖三凌玻璃』が人魚詩社より出版され翌年(大正5年)頃から詩壇の注目をあびるようになった。この詩集は非常に難解であったために非常な悪評をあびた。友人の犀星、朔太郎は『聖三凌玻璃』のよき理解者であった。

 大正5年の9月に暮鳥は室生犀星と初めて会った。朔太郎とも会った。犀星は当時を次のように言っている。“やさしくよく苦労したやうな詩にみるやうな固い人ではなく、おちついてしみじみ話す風の人であった。” この年はぼ暮鳥に色々な事があった。ドストエフスキーを知った年であり、詩風が一変して人道主義になったという年であり、秋には『聖三凌玻璃』の悪評が頂点に達した時でもあった。あまりの悪評のために、“或る日自分は卒倒した。”と半面自伝に書いている。

(大正5年5月5日 花岡謙二宛書簡)

“私は今、しきりにギリシャ研究をやっています。それから米国からきた吹いて食ふようなドストエフスキーの手紙のほんやくをやっています。日本にはまだ来ていないものです。私の所へ来たばかりです。それなどによると私共の苦痛なんか、彼の爪の垢ですね。(後略)”

 “平の文展昨日より始まり、暮鳥の上に厳かな不安が襲ひかかる。パンのかはりに詩を食べるのだ。現代にありてはこれ以上の奇蹟何処にかある。これ真実の生活なり。ああ、蜻蛉のやうに過ぎゆく「時」よ。おん身の手、幸福にかがやくを切に祈る”

(大正5年19月16日 花岡謙二宛)

 暮鳥の生活は苦しかった。教会からの給料とわずかばかりの原稿料では苦しかった。その上、うまくいかない雑誌の会費を背負いこんだりすることがあった。

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